文章教育コラム

語彙力を鍛える

語彙力を鍛える

語彙力とは言葉を自分のものにする力

読解力を自分のものにするために最初に取り組むべきなのは、語彙力を養うことだ。

とはいえ、私は「四面楚歌」やら「捲土重来」などという故事成語や、「他山の石」などのことわざを正確に知っていたり、使えたりすることが大事だとは思わない。また、日常的に使わないような難読漢字の読みを知っていたり、「憂鬱」という字を書けたりしたところで、たいして意味があるとも思わない。

そのような言葉を知っていても、実際に日常生活で使う機会はないし、そんな言葉を使ったら、むしろ場違いになってしまうだろう。それを知っていたからといって、ちょっとした蘊蓄を語り、物知りを気取れるだけであって、それ以上の意味はない。読み取りができるようになるとも思わない。

文章を読み取れない人は、一つ一つの言葉の辞書に出てくるような意味が理解できないのではない。むしろ、その連なりを理解できない。言葉のつながりを身をもって理解することができず、それが頭に入らない。だから、言葉の辞書的な意味を覚えることが問題ではない。言葉を自分のものにすること、使えるようにすることが問題なのだ。

「言い換え力」を鍛える

私が、言葉を使えるようにするために鍛えているのは「言い換え力」だ。

人は言葉によって人の能力や人柄を読み取る。その際、手掛かりになるのは、ほぼ同じような内容をどのような表現を用いて語るかだ。

「俺、そんなこと知らねえよ」というのと、「僕、そんなこと、知らないです」「私はそのようなことを存じ上げません」「私はその件についての知識を持っておりません」というのでは、まったくニュアンスが異なる。

人はそのような文体を使い分けて生きている。同じ人間でも、状況によって、相手によって、自分の気持ちによって、表現を使い分ける。その場にふさわしい言い方をする。そして、話している相手にそのような自分をアピールする。

あるいは逆に、そのような言葉を聞いて、人は他人を判断する。そのような表現によって、その意味内容を理解するだけでなく、「この人は気さくな人だ」と思ったり、「下品な人だ」とか、「知的な人だ」と思ったり、「油断できない」と思ったりする。会話というのは、相手にそう思わせようと思ったり、それに失敗したり、つい本音を漏らしてしまったりといったことの連続であり、それをどう読むかの連続なのだ。

言葉遣いは化粧である

言葉を使うというのは、ある意味で、化粧をすることだ。

もちろん、化粧をしないで「すっぴん」のまま人前に出ることがあるように、ありのままの考えをまっすぐに語ることもある。他人からどう思われようと気にしないで、思いをそのままぶつけるような場合だ。その場合には、まずは自分の言いたいことをしっかりと相手にわからせようとするだろう。

だが、多くの場合、語る人は、少しいろどりをつけて相手に言葉を与える。相手がどう考えるか、相手にどう考えてほしいかを加味して言葉を練る。思った通りのことを語るのでなく、少し言葉を改める。相手を傷つけないようにしたり、逆に傷つけようとしたり。へりくだってみせたり、逆に相手を威圧しようとしたり、しっかりと理解してもらおうとしたり。

ともあれ、相手にどう思われたいか、自分がどういう人間であると思わせたいかによって、言葉をいじる。そうした様々な言い換え、様々な言葉の雰囲気を知って、それを状況に応じて使い分ける。そこに口調が生まれ、その人の個性が生じ、文体ができる。

言葉を受け取る人は、まっすぐに理解しようとすることもあるし、語る人間のそのような語彙によって、その表現の奥にある意味を受け取ることも多い。その人の言いたいこと、遠回しににおわせようとしていることを理解する。時には、語っている人が隠しておきたいと思っていることも、その言葉遣いから理解する、このように、語彙の使い分けを知っているからこそ、正確に読み取ることができる。

したがって、言葉の力をつけるためにも、そして読解力をつけるためにも、一つの言い方ではない、もっと別の表現があることを知り、様々な表現を自分のものにすることが大事なのだ。そうすることによって語彙が身につき、読解力がついてくる。

*樋口裕一『「頭がいい」の正体は読解力』幻冬舎新書2019 p32~35より

コラム一覧に戻る